山方城

やまがたじょう

 山方城は、常陸大宮市山方地域市街地の北側に立地します。

 応永15年(1408)、関東管領上杉憲定の子 義憲(のち義人と改称)が佐竹氏を継いだとき、後見として美濃国山方(岐阜県山県市)から常陸国に入った上杉一族の山方能登守盛利が居城としたと伝えられています。その後、佐竹氏15代義治の第5子 東政義の居城となりましたが、ほどなくして東氏は小里(常陸太田市)に移ったとされます。

 佐竹系の城館の特徴といえる、川を望む舌状台地上に位置し、西側には高館山(たかだてやま)、南側には皆沢川(かいざわがわ)が流れる要害の地です。現在、櫓が展望台として復元されている御城(みじょう)と呼ばれる台地東端が主郭で、そこから西に向かって中ノ城(なかのじょう)、外城(とじょう)が形成されていました。郭(くるわ)の間には空濠(からぼり)の跡もあり、畑や宅地になった現在でも遺構がよく残っています。この御城・中ノ城・外城が日常の居館であり、西側にそびえる高館山は本城部分が落ちた際の詰めの城です。高館山中には、連郭式(濠や土塁などで区切られた区画が直線状に連なる城の形式)の城跡が現在でも確認されます。城内には、市内の中世城郭跡同様、戦に備えて植えたとみられるヤジノ(ヤダケ)が群生しています。

 御城の南麓は現在「根小屋」という字名で呼ばれており、家臣の居住区であったことがうかがえます。根小屋地内の皆沢川にかかる橋は「嘆願橋」と呼ばれ、城内に入ることを許されなかった庶民は、この橋で嘆願したと伝えられています。この嘆願橋から南郷街道を通って御城大手口に至る道は、戦国期の山城の雰囲気を色濃く残しているといわれています。

 昭和61年に国道118号線バイパス工事に伴って行われた御城の発掘調査で出土した、古銭、中世の灰釉陶器片や数点のかわらけ、墨書(経文?)を施した石などとともに、山方氏の子孫の方から寄贈された関係史料が、御城展望台内の展示室で公開されています。

(参考/広報 常陸大宮 平成17年5月号「ふるさと見て歩き 1」)