青い目の人形 クリッシー

あおいめのにんぎょう くりっしー

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市指定

歴史資料

青い目の人形(クリッシー)

大宮 中富町

 第一次世界大戦後の経済不況の中、悪化した日米関係を改善しようと、アメリカから日本の子どもたちに贈られた青い目の人形の一体が、美和地域小田野の嶐郷(りゅうごう)小学校に保管されてきたクリッシーです。現在は、小学校の統合によって嶐郷小が廃校となったため、常陸大宮市歴史民俗資料館で管理しています。

 大正から昭和初年(1920年前後)にかけて、米国内では第一次大戦後の世界的な経済不況で失業者が増加し、日本人移民を排斥する運動が顕著になっていました。親日家だった世界児童親善教会事務局長のシドニー・ギューリックはこれを憂い、日米協会々長で日本経済界の重鎮 渋沢栄一に両国の親善のための人形受入れを要請したのが発端となりました。

 米国側では国際児童親善会やキリスト教団体が主導して、約1万2千体の青い目の人形が用意されました。子どもたち主体の国際交流を目指すため、人形の名付けや人形用パスポートの手配、輸送費用の捻出、送別会の準備・実行等を米国の子どもたちに任せ、日本のひな祭りの時期に合わせて贈るようにするなど、異文化理解にも気を配りました。

 米国から人形が東京に到着したのは昭和2年(1927)2月。3月3日には日本青年館で歓迎行事が行われ、その後各都道府県の小学校と幼稚園に配布されました。

 茨城県には243体の人形が贈られ、そのなかの1体 クリッシーが嶐郷小学校にやってきました。市内の他の小学校にも青い目の人形は贈られ、それぞれに盛大な歓迎会が開かれたと思われますが、太平洋戦争中に敵国の人形として処分されるなどして、市内にはクリッシーしか残っておらず、県内でも他に8体しか残っていません。クリッシーは、物置の隅にしまわれていたとか、近所の人が家にかくまった、などといわれており失われずに済んだ真相は不明です。昭和48年頃のテレビ番組で青い目の人形の特集をしたことがきっかけとなり、校内で児童に「発見」されることとなりました。

 青い目の人形は、当時アメリカで大量生産されたコンポジション製(樹脂とおがくずなどを混ぜて型抜きしたもの)で、手足が自由に動き、寝かせるとまばたきをして「ママー」と声を出す仕掛けがありましたが、現在声は出ません。

 クリッシーは、ギューリック氏の手紙とともに、ニューヨーク市ブロードウエイの出身であることなどが記されたパスポートを今も持っています。

(広報 常陸大宮「ふるさと見て歩き 23」平成19年3月より)