鷲子陣屋跡

とりのこじんやあと

 水戸藩の郡制改革によって享和2年(1802)より文化12年(1815)までの14年間設けられた鷲子組(とりのこぐみ)の、美和地域鷲子におかれた陣屋(郡役所)の跡です。

 農村の荒廃を立て直そうとの水戸藩の取組みのひとつとして、当時領内を南・太田・松岡・武茂(むも)の4つに分けていた郡制を細分化して11とし、武茂郡に属していた51か村を新たに鷲子組として新設しました。(水戸藩の郡政改革については 八田陣屋跡 参照)

 陣屋は鷲子字仲島の山を背にした高台に建てられました。現在跡地には鷲子陣屋跡の標柱が立っています。建設にあたっては、周辺の農民に、材木を伐り出し普請の手伝いをするなど労力奉仕が義務付けられたようです。陣屋には医師も配置されており、後に藩医となり江戸詰めの表医師にまでなった村田隆民(むらた りゅうみん)が鷲子陣屋に配属され、江戸新五郎の墓碑建立にも関わっています。

 鷲子陣屋の初代郡奉行には、小山田郡平が任じられましたが、現地に赴任する前に別の職に転じたため、実質的な初代鷲子組郡奉行は次に任じられた皆川弥六で、文化7年(1810)に没するまで足掛け9年務めました。その後は松平権蔵、池原勝三と続きましたが、文化12年9月に鷲子組は廃止され、那須郡の18か村が大子組に編入された以外は、すべて八田組に編入されました。

 鷲子組に属していた51か村は以下の通りです。

上伊勢畑、下伊勢畑、大畠、金井、野口、野口平、国長、福岡、長倉、野田、秋田、千田、入本郷、中居、吉丸、小玉、小瀬沢、松の草、油河内、大岩、小舟、上小瀬、下小瀬、法性寺、那賀、門井、鷲子、小田野、入檜沢、氷之沢、高部、上檜沢、下檜沢、(以下 那須郡)富山、松野、久那瀬、矢又、馬頭、武部、和見、向田、小口、小砂、大山田上郷、大山田下郷、谷川、多部田、大内、岡組、三ケ又新田、大那地

(参考/美和村史編さん委員会『美和村史』平成5年)