結城寅寿の墓

ゆうき とらじゅ の はか

 御前山地域長倉の蒼泉寺(そうせんじ)には、幕末に水戸藩の家老を務めた結城寅寿の墓があります。

 寅寿(朝道 ともみち)は、文政元年(1818)水戸藩の家老 結城家の次男として江戸に生まれ、兄の死によってわずか7才で結城家の家督を継ぎました。幼い時から俊英の誉れ高く、天保4年(1833)に江戸藩邸に出仕すると、同12年には23才の若さで若年寄に就任、その後も異例の出世で用達(執政)となり、12才年上で改革派のリーダーである藤田東湖に対し、保守門閥派の若き領袖として藩の重鎮となりました。

 弘化元年(1844)5月、藩内の改革を進め幕政にも多大な影響力を持っていた、水戸9代藩主 徳川斉昭は幕府から謹慎を命ぜられ、長男の慶篤が10代藩主に就きます。この斉昭の失脚は、結城寅寿とその一派による幕府への讒言によるものと、斉昭とその近臣は認識していました。

 半年後の同年11月、謹慎を解かれ、嘉永2年(1849)3月に藩政に参与することを許された斉昭は、改革派を重用するとともに、取り調べもなしに保守派の家臣を次々と処罰しはじめます。斉昭から「奸物の首領」と目された結城寅寿とその子 一万丸も嘉永6年(1853)10月に捕らえられ、当時松平氏の領地 長倉の、陣屋の一角にあったといわれる獄舎に収容されました。

 安政2年(1855)10月、江戸を安政の大地震が襲います。この地震で、斉昭は2人の重臣、家老 戸田忠敞(とだ ただあきら)と側用人 藤田東湖(ふじた とうこ)を失い、藩内の対立は一層激しさを増します。一説には、腹心であった東湖の死によって、斉昭の行動を抑える家臣が不在となり、保守派への粛清が一気に進んだといわれています。そのような中、結城親子は安政3年(1856)4月、長倉の刑場で死罪となり、結城派の他の面々も他藩にまで及ぶ厳しい探索によって処罰されました。

 結城寅寿の遺骸は、藩命によって「打ち捨て」とされたようです。処刑場に隣接する蒼泉寺の住職 米庵天貢(べいあん てんこう)がこれを憐れんで、ひそかに寺内に葬りました。その後、氏家(栃木県さくら市)に住む結城家の縁者によって墓石が立てられました。一万丸についての伝えはありません。

 寅寿と同時代の水戸藩の学者 青山延寿の孫にあたる山川菊栄は、著書『覚書 幕末の水戸藩』に、結城の処刑の状況を知る人物が後に語った話として、処刑は前触れなく侍が3・4人やってきて、獄舎の役人に口止め料として5両が与えられたこと、運び込まれた棺桶は武士の用いる寝棺ではなく粗末な座棺であったこと、殺害される際、結城は最後まで公正な審理を求め訴え続けたことを記しています。

(広報 常陸大宮「ふるさと見て歩き57」平成23年7月より)