粉コンニャク

こなこんにゃく

 コンニャク芋をスライスして乾燥し、搗き砕いて粉末にしたものが粉コンニャクです。当市諸沢出身の中島藤衛門(なかじま とうえもん)が、江戸時代中期に考案しました。

 コンニヤクは、サトイモ科の夏緑多年草植物で、原産地はインドまたはインドシナ半島(ベトナム付近)とされ、東南アジア大陸部に広く分布しています。芋状の地下茎(コンニャクイモ)を3年ほど栽培し、主に日本・中国・ミャンマー・韓国で食用としています。

 コンニャクイモは6世紀中頃に薬用として朝鮮半島から日本に伝わり、その後推古天皇の時代に本格的に中国から輸入されたといわれています。当初の目的は「砂払い(整腸)」の薬効でしたが、鎌倉時代までに食品として扱われるようになり、精進料理の食材として珍重されました。庶民に広まったのは江戸時代前期、元禄年間(1700年前後)頃とされます。

 江戸時代前半頃まで、コンニャクイモは生玉で取引されたため、重く輸送に不便なうえ、春先になると腐敗しやすく、採算に合わない不利な産物でした。しかし、諸沢を含む県北の山間地域は、小石交じりの傾斜地ばかりでコンニャクや楮しか栽培に適さず、農家は困窮していました。

 藤衛門はそのような農家の窮状を嘆き、腐りを防ぎ輸送に便で保存に堪える方法を長年模索していました。そんなある日、藤衛門は畑で自然に乾いたコンニャク玉の切片を見つけ、芋を薄切りにして乾燥させ、粉末にすることを思いつきます。粉コンニャクの完成は安永5年(1776)と伝えられています。その40年ほど後、上野宮村(大子町)の益子金蔵が、粉コンニャクの製粉中に不純物を除く方法を確立し、高品質の「精粉」の生産が行なわれるようになります。

 現在、生産されるコンニャク芋のほとんどが粉コンニャクとして流通し、様々な食品に加工されています。今では茨城県のコンニャク生産高は群馬県に遠く及びませんが、国内にコンニャクの食文化を広めた藤衛門の功績を忘れてはなりません。

(参考/『山方町誌 上巻』昭和51)