香川敬三

かがわけいぞう

諸生派に襲撃され時の刀傷(下伊勢畑蓮田家)
諸生派に襲撃され時の刀傷(下伊勢畑蓮田家)

 御前山地域下伊勢畑出身の幕末の志士です。

 蓮田了介(のちの香川敬三)は、天保10年(1839)、下伊勢畑村の農民 蓮田重衛門の三男として生まれました(生年は天保9年または12年説もあります)。2人の兄、善九郎・東三(東蔵とも)はのちに尊皇攘夷運動に身を投じて活躍します。

 次兄 東三と敬三は野口の郷校 時雍館で学び、翌年から水戸へ出て藤田東湖の私塾に入り頭角を現していきました。東三は安政3年(1856)のハリス来航に際し、条約の締結を要求するアメリカ側の強硬姿勢に憤慨して仲間2人とともにハリス暗殺を企てますが、事前に捕縛されて22才の若さで獄死します。明治後半になって従五位が贈られ、記念碑も建っています。

 敬三は15才のとき上伊勢畑の神官 鯉沼綱彦の養子となり、以後は鯉沼伊織を名乗ります。外圧の高まりの中、尊王攘夷運動に傾倒し、水戸藩の内紛では改革派として活躍、生家の蓮田家には、保守派の襲撃に遭ったときの生々しい刀傷が柱に残っています。

 文久3年(1863)、藩主 慶篤に従って上洛しますが、藩主が帰郷しても、そのまま京都に潜伏していたとみられ、そこで出会った討幕派の公卿 岩倉具視の思想に共感して、岩倉に仕えるようになります。戊辰戦争では新政府軍の東山道軍大軍監として具視の子 岩倉具定の補佐役を務めました。ここで甲陽鎮撫隊と激戦となり、近藤勇を降伏させ、土方歳三を敗走させたといわれています。

 明治に入ると名を香川敬三と改めました。一時廃絶していた公卿の香川家を継いだためと考えられています。明治政府では兵部権大丞、宮内権大丞などを歴任し、明治14年(1881)には皇后に関する一切を取り仕切る役職である皇后宮大夫に任じられました。着実に経験を積み重ね、宮内省の高官に登りつめた敬三は、明治40年には伯爵の称号を授けられ、死去する直前の大正4年には従一位という高位に叙せられました。死後は東京都の青山墓地に埋葬されました。

 生前敬三は、郷里 伊勢畑地区をはじめとする各地災害被害者への見舞金、出征遺家族の扶助などの寄附も頻繁に行うなど、遠く離れた故郷への思いを行動に示しています。慶応3年に高野山で挙兵する前、死を覚悟して自ら故郷に残していった頭髪を埋めた「鯉沼伊織埋髪塔」は、現在も養家 鯉沼家の墓地に建っています。

(広報 常陸大宮「ふるさと見て歩き 18」平成18年10月より)

鯉沼伊織埋髪塔(下伊勢畑鯉沼家墓所)
鯉沼伊織埋髪塔(下伊勢畑鯉沼家墓所)