岩瀬 与一太郎

いわせ よいちたろう

空堀のような遺構(下岩瀬中屋敷)
空堀のような遺構(下岩瀬中屋敷)

 岩瀬与一太郎は、大宮地域下岩瀬(一説には上岩瀬とも)の生誕と伝えられ、のちに源頼朝の御家人として鎌倉に移り住みました。下岩瀬地内には、与一太郎の居館跡といわれる城跡もあります。

 岩瀬氏は藤原秀郷5世の孫で太田郷(常陸太田市)に居住した藤原公通の第3子 通近が倭文郷(しどりごう)の岩瀬に住んで岩瀬氏を名乗ったのが始まりといわれています。与一太郎はその子孫で、佐竹3代の秀義に仕えました。

 与一太郎については、鎌倉幕府の正史『吾妻鏡』に記された有名な逸話があります。治承4年(1180)11月、頼朝は平氏追討のため伊豆で挙兵しますが、源氏一族でありながら平氏とのつながりの強い佐竹氏は、挙兵に参加せず微妙な立場におかれていました。頼朝は挙兵に従わない佐竹秀義を討伐するため、秀義が立て籠もる難攻不落の金砂山城に兵を向けますが、攻めあぐみ、秀義の叔父に内通して城への間道(市内諸沢からの道)を案内させて落城に追い込みます(金砂山合戦)。

 秀義はからくも花園城(北茨城市)に逃れますが、兄の佐竹義政は敵将 上総介平広常(かずさのすけ たいらのひろつね)の甘言に乗り殺害されてしまいます。義政に従っていた与一太郎ら従者は、頼朝軍に捕らえられ、斬首されることが決まります。頼朝は捕縛された者の中に音に聞こえた猛者、岩瀬与一太郎をみると、「武士ならば潔く戦で死ぬべきものを、なぜ今捕まって斬首を待つのか」と問いかけました。与一太郎が答えるには「いま源氏が力を合わせて平氏に対抗しなければいけないときに、同姓の佐竹氏を滅ぼすとはどういう考えか。今はみな頼朝公の威勢を怖れ従っているが、のちに必ず反抗する者が出てくるはずである」と無礼を顧みず答えたといいます。これを聞いて頼朝の重臣たちは憤慨しましたが、頼朝は非常に感じ入って与一太郎を御家人に加えたというものです。

 岩瀬の地に生まれた与一太郎は、頼朝の御家人となって知行地を与えられ、鎌倉に住しました。現在もその地には岩瀬という地名が残り、与一太郎が勧請したと伝えられる五社稲荷神社が鎮座しているそうです。

(広報 常陸大宮「ふるさと見て歩き 26」平成19年6月より)