部垂(宇留野)義元

へたれ(うるの)よしもと

 部垂義元は、大宮地域市街地にあった部垂城と、同地域宇留野にあった宇留野城の城主でしたが、兄 佐竹義篤(さたけ よしあつ)に攻められ、城もろともに滅んだ人物です。

 義元は永正7年(1510)、佐竹氏16代で佐竹氏中興の祖といわれる義舜(よしきよ)とその正妻 岩城親隆の娘との間に生まれました。義元には兄 義篤(よしあつ)があって本家の相続は叶いませんでした。時代は下剋上の混乱期で、新旧勢力の対立が大名家の家督相続を巡る争乱として表面化する時であったため、義元と本家を相続した兄 義篤との関係は思わしくありませんでした。そのような中、義元は一族の宇留野義久の養子となって宇留野名跡を相続、その後の享禄2年(1529)、小貫俊通(おぬき としみち)から部垂城を奪い、部垂氏を名乗ります。義元の勝手な軍事行動を快く思わない義篤との争いは、部垂十二年の乱(部垂の乱)といわれる争乱となります。

 天文9年(1540)3月14日、突然義篤が兵を集めて部垂城を包囲し、総攻撃を加えました。この戦によって部垂義元とその子竹寿丸は討死し、義元一族は滅亡したと伝えられています。その後、部垂の家臣団は部垂衆として小場(おば)家の寄騎(よりき)となり、秋田国替えの際も小場家に従って大館城下に入りました。今も、秋田県大館市内には部垂町(へだれまち)の地名が残り、隣の桜町には義元を祭神とする部垂八幡神社があります。
(参考/『大宮町史』昭和52年、茨城大学中世史研究会「常陸大宮ヒストリーマップ 甲神社と部垂の乱を歩く!」2012)