永田茂衛門・勘衛門

ながた もえもん・かんえもん

 永田茂衛門とその子 勘衛門は、水戸藩の三大江堰とよばれる、辰ノ口(たつのくち)、岩崎(いわざき)、小場(おば)の三江堰の開設工事に従事し、完成させた人物です。

 永田茂衛門父子は、甲州(山梨県)黒川で金山開発に当たっていた「金山衆(かなやましゅう)」とよばれる鉱山技師で、永田家に伝わる由緒書によれば、先祖は甲斐武田氏の家臣でしたが、武田氏の滅亡後は徳川家康に仕え、金山採掘者を引率して各地の合戦に赴き、多くの手柄をたてたとのことです。

 甲州武田の支配地は金山開発が盛んで、金山衆は採掘や精錬の高い技術を持っていましたが、戦国時代の末には資源が枯渇し、武田氏の滅亡を機に伊豆などの有望な金山に新天地を求める者もありました。佐竹氏支配下にあった常陸国も、16世紀末の記録によると、越後、佐渡に次ぐといわれる金の産出量を誇っており、永田茂衛門父子も、当時新たな金鉱脈が発見されるなど、将来的にも金山開発に期待の持てる常陸国北部への移住を決断したようです。

  寛永17年(1640)、茂衛門父子は常陸国に来住して錫高野(すずごや 城里町)で採鉱を開始し、3年後には町屋金山(常陸太田市)に移って金山開発に従事しました。

 関が原の戦いで勝利し江戸に幕府を開いた徳川家康は、それまでの長い間当地を支配してきた佐竹氏に秋田への国替えを命じ、佐竹氏の旧領地を徳川家の支配下に置いて実子を水戸城主としました。家康は、第5子で武田の名跡を継がせた武田信吉が水戸城主となって間もなく継嗣不在のまま亡くなると、第10子の頼宣(2歳)を、その6年後には第11子の頼房(7歳)を城主とし、ここに頼房を藩祖とする水戸藩が成立しました。新規大名である水戸徳川家に家臣団はなく、断絶してしまった武田家の遺臣等が家臣の中心となります。この武田の遺臣の中に、水戸藩政初期に土木工事や農政の発展に尽力した望月五郎左衛門恒隆(もちづき ごろうざえもん つねたか)もいました。

 長い戦国の世が終わると間もなく、人口急増にともなう食料不足が起こります。江戸時代の初期には、全国的に新田の開発が進められ、灌漑を目的として小規模な堰や水路の開設が相次ぎましたが、こうした開発も17世紀半ばには限界となります。そこで水戸藩では、将来役に立つ工事なら多額の経費をかけてもよいとの方針を打ち出し、久慈川や那珂川といった大河川に大規模な堰を築き、長大な水路(江)を設けるという、大規模開発に着手します。その指揮に当たった望月五郎左衛門が、江堰開設のための技術者として目をつけたのが、永田茂衛門父子でした。

 鉱山開発者の多くは、坑道から水を抜いたり、比重選鉱するための水路開設等の測量術(水積 みずもり)や、岩盤掘削術に長けていたことから、茂衛門父子が抜擢されたと考えられます。

 正保2年(1645)から辰ノ口(市内辰ノ口)に堰を設けることとして調査に入り、2年後に着工、翌年の慶安元年(1648)暮には通水し、慶安2年から灌漑を開始しています。久慈川東岸地域を灌漑域とする辰ノ口江堰に対し、同西岸域を灌漑域とする岩崎江堰は、辰ノ口江堰工事中の慶安元年に計画されて間もなく着工し、慶安3年に灌漑を開始しています。

 那珂川に設けられた小場江堰は、明暦2年(1656)に着工して年内に完成しましたが、大水による流路の変化によって下江戸(那珂市)に設けた取水口からの取水が不能となり、2年後の万治元年、取水口を小場に変更する工事を行ないました。

 翌万治2年(1659)5月、父 茂衛門が亡くなります。勘衛門は2代目茂衛門を襲名し、水戸城下の笠原水道や常陸太田の山寺水道の開設、溜池の改修・掘削など、引き続き治水事業に尽力し、水戸藩2代藩主 光圀より円水の号を賜りました。元禄6年(1693)5月、2代茂衛門は75歳で没しています。 

(参考/『図説 永田茂衛門親子と三大江堰』常陸大宮市歴史民俗資料館 2006)