節婦 ヤス

せっぷ やす

 17世紀中頃、野上村の百姓 与次衛門の妻に、ヤスという者がありました。ヤスは舅姑によく仕え、農業にも出精していましたが、夫の与次衛門は病気がもとで体が不自由となってしまいました。周囲の者はヤスに、夫と離縁して再婚することを勧めました。しかしヤスは反論し、一度夫婦になった上は離縁などありえず、ましてや姑を残して他へ縁付くなど考えられない、との強い意志を示しました。その後ヤスは事実上一家の柱となって農作業から家事一切をこなしたといいます。

 この貞節ぶりが光圀の耳に入り、時の水戸藩主 綱條から褒美を受けました。

 後にヤスの家も絶え、ヤスの墓と推定される小塚があるに過ぎませんでしたが、大正4年(1915)、野上青年会によって諏訪神社の境内に顕彰碑が建てられ、ヤスの善行を今に伝えています。

 

(参考/広報 常陸大宮「ふるさと見て歩き 6」平成17年10月)