部垂城

へたれじょう

 大宮地域大宮市街地に跡を残す中世城郭です。城の中心部分には、現在、市立大宮小学校が建っています。

 部垂城は、久慈川西岸の比高25mの大宮台地北側の縁辺部に築かれた城郭で、東西400m・南北300mの規模をもちます。14世紀頃、常陸平氏の子孫である河崎頼幹が築城したと伝えられ、長禄年間(1457-60)に岩瀬一族の小貫頼定がこれを奪い居城とします。その後小貫氏が3代 約70年間城主を務めましたが、享禄2年(1529)、佐竹宿老として重きをなした3代俊通の時、佐竹17代 義篤の実弟 義元の攻撃に遭って城を奪われました。宇留野氏の名跡を継いでいた義元は、以後、部垂義元を名乗ったようです。

 兄 義篤との関係が思わしくなかった義元は、部垂攻略を契機として一層険悪となり、部垂十二年の乱(部垂の乱)と呼ばれる争乱に発展します。このような中で、義元は家臣団の強化や、部垂城の大規模な拡張工事を行なったようです。天文9年(1540)3月14日、突然義篤が兵を集めて部垂城を攻撃。義元は討死、城も落城して、部垂の乱は終結しました。

 この義篤の突然の来襲については、部垂城大手橋の架け替え工事担当の奉行 大賀外記(おおが げき)を、義元が工事結果の不満から衆人環視の中で罵倒したことから、逆恨みした外記が太田の本家に走り、部垂城を要害堅固にしているのは義元が本家に謀反(むほん)を企てているからだと讒言したためと伝えられています。

(参考/『大宮町史』昭和52年、茨城大学中世史研究会「常陸大宮ヒストリーマップ 甲神社と部垂乱を歩く!」2012)