下檜沢の歌舞伎舞台

しもひざわのかぶきぶたい

 美和地域下檜沢で、明治時代に作られ使われてきた組立式の農村舞台。下檜沢の鎮守 鹿島神社で3年(戦後は6年)に一度大祭礼を行ない、その余興として緒川のほとりの丹下河原(たんげがわら)に舞台を組み立て、歌舞伎を演じてきたといいます。

 昭和4年の銘のある、地割(じわり)と呼ばれる設営図によると、桟敷席を含めた最大間口は約18m、奥行きは27mあり、舞台上には舞台背景となる襖(ふすま)を3段に設置することができる大掛かりなものでした。襖は、市内に残る他の舞台では、巾60cm・高さ150cmのものが12枚で1組ですが、下檜沢の襖は、巾90cm・高さ180cmと大型のものが6枚で1組となっています。地元の伝承では、襖は500~600枚も保持しており、「先代萩」「忠臣蔵」「太功記」「義経千本桜」等あらゆる演目に間に合ったといいます。この襖の絵は、長谷川善八という人物が、明治20年(1887)5月頃から描き始めたと伝えられていますが、この人物についての詳細は不明です。

 襖を含むすべての関連道具は、鹿島神社境内にあった舞台蔵に保管されていました。道具は下檜沢の第一~第三集落が所有し、地域の若衆の団体 睦会(むつみかい)が管理を担当して、昭和30年頃までは毎年盆の16日に虫干しを行ってきました。

 下檜沢では、明治中頃に舞台道具ができる以前は操り人形の芝居があり、最初は地芝居であったとも伝えられていますが、昭和初期までは栃木県の茂木町飯野や益子町の役者を買い、人も物資も不足する昭和18年頃からは、睦会で役者もこなして数回の公演を行ったそうです。

 しかし、戦後、歌舞伎の上演も絶えて久しくなると、舞台道具の管理も行われなくなり、雨漏りや虫害のために多くの道具類が損傷し、蔵を解体する折に傷んだ道具も焼却処分してしまったということで、現存するものはおよそ三分の一ほどになってしまったそうです。

(参考/美和村教育委員会『下檜沢宿里の歌舞伎の舞台(襖)道具』平成16年、広報 常陸大宮「ふるさと見て歩き 19」平成18年11月)